あなたのキスが生命線 


 お互いの唾液が交わるくらい深く、深くキスをする。ローの手が私の髪を撫で抑え更に深く舌が口内に潜り込んでくる。静かな空間に唾液の交わる水音が響いて官能的な気分にさせられた。
 ガリ、とローが私の唇を噛んで血が流れる。喉が嚥下して血を飲みこんでいるのだと分かる。ふわふわする意識の中目を閉じローと出会った日に思いを馳せた。


 ◆
 

 小さな島でシスターとして教会にいた私は毎朝の習慣に則り神に祈りを捧げた後掃除をするべく外に出た。毎日綺麗にしていると心まで洗われる気分になるから掃除は好きだ。表を掃いていると時折子供たちが手伝ってくれたり近所の野良猫が遊びにきたりするから毎日今日は誰が訪ねてくるのだろうと弾んだ気持ちで外に出る。誰も来ない日は来ない日でゆっくり掃除に集中し、いつもより時間をかけて細かいところを拭いてみたりとそれはそれで楽しかった。
 その日も誰も来ない日で、私は教会の裏手にまで足を伸ばしていた。裏手に回ると途端に薄暗い森が広がるため、子供たちがいる時はあまり来ないのだ。それに、森には魔物が住んでいる。
 夏が近づいてくるのを知らせるかのように所々草木が伸びてきてそろそろ本格的に手をつけなければと腕まくりをした時だった。
 ガサリと音がし、恐る恐る物音のする方へ目を向けると見知らぬ男の人が倒れていた。
 腕から血を流しピクリとも動かない男の人に声にならない悲鳴をあげる。それでもシスターとしてこのまま放っておくわけにはいかないとなんとか背の高い彼の脇の下に腕を通し、若干引きずりながらも教会の中へ運び入れた。
 清潔な水を汲み、手当をする。高熱に侵された彼は眉間に皺を寄せ浅い呼吸を繰り返した。血を流していた腕を持ち上げ牙を突き立てられたような二つの傷を目視する。もしかしたら、この人は。
 少しまずいかもしれないと用心の意味を込めて奥に隠していたナイフを手に取る。早くなる鼓動は私のものか彼のものか分からなかった。

 彼を運び入れて早三日。ようやく目覚めた彼はゆっくり辺りを見渡し、やがて私を視界に入れた。咄嗟にナイフを手に動向を伺うと彼は怪訝な顔をした。

「脅えるくらいなら何故助けた」
「聖職者として、人を見殺しになどできないからです」
「海賊相手でもか、随分お優しいんだな」

 皮肉る言い方ではあるものの、一向にこちらに危害を加える気配は無い。試しにカーテンを後ろ手に開け、日光を部屋に入れてみると彼は眩しそうに若干顔を顰めたがそれ以外なんら変わらない態度だった。

「あの、貴方森で何があったか覚えていますか?」
「森……」
「貴方の腕の傷、ヴァンパイアに噛まれた跡がありました。噛まれた人間は同じくヴァンパイアになるはずですが、貴方はまだ人間のようですので」
「ヴァンパイアだと?」

 ふざけたことを抜かすなと言わんばかりの態度に怯みそうになるが、この島では広く知られた事実なのだ。
 ――森に古くから住むヴァンパイア。日光に弱く、神聖なものに触れると酷い火傷を負う不老不死の化け物が闊歩していたこの島に、運悪く人間が流れ着いた。流れ着いた人間はやがて対抗手段として森と町の境に教会を建て、代々聖職者が町を守ってきた。教会が建てられてから食料である人間の血を飲むことが難しくなったヴァンパイアは今や絶滅寸前といっても過言ではないほどに減っている。そのおかげで町は森に踏み入れなければ安全そのものだ。

「なるほど、ヴァンパイアね……。確かにそれらしき奴に首を噛まれそうになったがすぐに追い払った。腕には噛みつかれちまったようだが」
「首ではなかったから助かったのかもしれませんね、良かった……。太陽の下を歩けないとなると色々と不便ですし」
「……そうだな」

 溜飲を下げ、ヴァンパイアでないなら心配要らないとナイフを机に渡す。実はこのナイフも対ヴァンパイア用に作られた特別性のものなのだ。この島の人間は皆お守り代わりとして持っている。

「まだお身体も万全では無いでしょうし、良ければもう少し休んでらしてください」

 この島の出身でない人にいきなりヴァンパイアの話をしたのだから不安もあるだろうとなるべく柔らかな笑顔を作って見せ、何かあれば隣にいると言い残して部屋を後にした。


 ◆


 ヴァンパイアが教会を嫌うならここにおれが入れている時点で人間だと気づかないものだろうか。海賊だと言ったのにも関わらず柔らかに微笑む女に僅かな好奇心が湧く。
 賑やかなガキの声が誰かの名を呼び、先程の女が返事をするのが聞こえた。聞き耳をたてる限り、あの女は随分慕われているらしい。おれに接するより幾分か明るい声で女が笑うのが耳に届いた。
 あの微笑みが歪む時はどんな瞬間だろうか。彼女の恐れるヴァンパイアに襲われた時か、自身を慕うガキ共に何かあった時か。それとも、助けた海賊に手を出された時か。

「お加減はいかがですか?」
「問題ない」

 良かった、と安堵の息を吐き、飯を運んでくる女を観察する。シスターと呼ばれるだけあって彼女の纏う空気はどこか清浄でおれとは別世界の生き物にも見える。穢れも痛みも何も知らなさそうな無垢な人間と接するのはいつぶりか。海賊なんてものをやっていると腹に一物抱えたような奴らばかりと接することになる分、女の持つ雰囲気は新鮮で暇つぶしがてらからかってみるのも面白そうだと悪戯に女の手を取った。おれのものと比べ小さい手を弄ぶ。手を滑らせ手首を掴み女を引き寄せた。ベッドに膝をついた女の腰に手を置き、さてどうしてやろうかと舌なめずりをする。目を瞬かせた女がどうしましたか? とおれに声をかけた。

「は?」
「いえ、急に手を引っ張ってこられたので何か言いたいことがあるのかと……」
「…………」

 どうにも気が狂う女だ。興が醒め、別に何もないと解放してやると何かあったら遠慮せずすぐおっしゃってくださいねと目尻を下げた。そのまま何事も無かったかのようにトレーに置いていた水差しとグラスを並べ始めるのをぼんやり眺める。

「ここにはお前以外いねェのか」
「えぇ、ここは森に近いですから。他の方は街中の教会に」
「街にも教会があんのか」
「ありますよ。あちらの方が設備も整っていますし、もう少し回復したら移られますか?」
「……いや、いい」

 何故ここにはお前しかいないのか。そう聞くのは踏み込みすぎだろう。なら手当もお前がしたのかと問うと静かに頷く。的確な処置に埃一つない清潔な部屋は女の勤勉さを如実に表しているようだった。流石はシスターといったところか。

「海賊……とおっしゃいましたよね。お仲間もいらっしゃるんですか?」
「あァ。別行動中でな。近々合流予定だったが……少しくらい遅れても平気だろう」
「そうだったんですね。……あの、暫くは子供たちもここには遊びに来られないようで……。良かったら旅立ちまで少しお話し相手になっていただけませんか?」

 遠慮がちにこちらを伺いみる女に構わねェと返すとおずおずと奥から簡易テーブルを持ってきてここで一緒に食事をとっても構わないかと続けた。もう一度肯定すると嬉しそうにすぐ戻りますとパタパタと駆けていく。
 先程ここに一人と言っていたがいつからいるのだろうか。そんな疑問がふと湧いてすぐに打ち消した。どうせ長居する予定はない。からかいがいもねェ女に興味を持ったからなんだというのだ。
 自分の昼食を手に戻ってきた女が包帯が緩んでいると手直しするのを手伝うでもなく眺める。テキパキとした動きに医療を学んだことがあるのかと疑問をぶつけると「私は元々孤児だったのを拾っていただいたので、できることは何でもしたいんです」と面白みのない答えが返された。清廉潔白、真面目を具体化したような女という見解が益々深まる。

「また包帯が緩んだり不調があればおっしゃってくださいね」
「必要ない。おれは医者だ」
「じゃあ、元いた船では船医を?」
「間違いではない」

 正確には船長と告げると女は分かりやすく目を見開き感嘆の声を漏らした。

「なんでも出来る人ってやっぱりいらっしゃるんですね」
「それを言うならお前もだろう。シスターで、医者か?」
「医者という程大したものでは。ある程度の知識があるというだけで」

 女は謙遜するがおれは意識を失う寸前自分で治療も出来ないほど弱っていた。少し聞きかじった程度の知識しか持た合わせていないやつがそう簡単に治せたとは思えない。

「私の話より、貴方のお話を聞かせてください。あまり外の話は聞かないものですから」

 女がそう身を乗り出したタイミングで近くで電伝虫が鳴った。ベッドサイドテーブルの上に置かれている電伝虫はおれの持っていたものだ。恐らくクルーの誰かが定期連絡を寄越してきたのだろう。おれの視線に気づいた女が気を利かせて出ていったのを確認し受話器を上げる。途端にやかましくなる空間に肩の力が抜けた。

『あー! やっと出た!! キャプテン定期連絡も無いし戻ってこないし心配してたんですよ!?』
『怪我とかしてない?』
「大した怪我じゃねェ」
『やっぱりしてるんじゃないですか!』

 心配したクルーがすぐにでもこちらへ飛んでくる勢いだったのを宥めてから近況を把握すべく質問を繰り出す。おれが単身出てからも特に変わりはないようで溜飲を下げた。
 幾つかの問答を終え、ようやく受話器を下ろし女が出していた簡易テーブルを見下ろす。ここで食べると言っていたが結局一人で食べたのだろう。電伝虫を繋げている間代わる代わるクルーが話しかけてきたおかげでそれなりに時間が経過しきっていた。
 女には助けられた恩もある。一言詫びくらい入れるべきか。女を探しに行こうと体を起こすと傷口が痛み思わず呻いた。腕に血が滲み、滲んだ箇所が熱い。ヴァンパイアとやらに噛まれたことを思い出し念の為能力を展開して調べる。血液に何かの分泌液が混ざっているのが見て取れた。このまま放置しておくのも気味悪く能力で取り除く。恐らくこの分泌液がヴァンパイア化に関係しているのだろう。全て取り除くとヘッドボードにもたれ掛かり呼吸を整えた。暫くすると脈打つような腕の熱は引いていった。ヴァンパイアなど信じちゃいなかったが得体の知れない何かが存在するのは確かなようだ。窓から見える薄暗い森。入った時の記憶は朧気だが常に何かの視線を浴びていたことは覚えている。
 島民なら誰もが知る化け物か。そんなものが闊歩する森にほど近いこの場所に女一人とは物騒な話だ。

「……あ、終わられましたか?」
「あァ。悪かったな、一緒に食ってやれなくて」
「いいんです。お仲間との時間の方が大切ですから。迎えに来るって連絡ですか?」
「来ねェよ。近くに居るわけでもねェし。……さっきは悪かったな。夕食は一緒に食う」
「え……。ふふっ。海賊の船長なのに律儀な方ですね」
「そりゃお前の方だろ。ここでシスターをやるほどの義理がお前にあるのか?」
「今は一人ですけれど、ここに来る前街の教会にいるシスター達に育ててもらったのは事実ですから。この教会を管理するのは恩返しでもあるんです」
「おれにナイフを向けるくらいにはビビってるようだったが」
「そ、れは怖いですよ。怖い気持ちがないわけじゃないですから。でもそれは私だけではないですし、森にさえ入らなければ比較的安全ですから」

 凛と背筋を伸ばし森を見据える女はお世辞にも戦闘に長けているようには見えず、そうは言っても襲われたらどうするつもりだと問う。おれがもしヴァンパイアになっていたら為す術なく食われていたとでも言うのか。

「随分、意地が悪い質問ですね」
「親切心だろ」
「街にヴァンパイアは行けません。日陰があまりないのも理由の一つですが島民は皆対ヴァンパイアのナイフを所持しているのでまず数で負けるでしょう」
「で?」
「心残りはないということです」

 ご立派な自己犠牲の精神をお持ちだことで。やはりこの女とは相容れない。動き回れるくらいに回復したらすぐに出ていこうと改めて決意を固めた。

 
 ◆
 

 翌日から朝昼晩の食事。包帯を変える時間を女……なまえと過ごすようになった。最初こそ一日中一人ベッドの上というのもつまらないという理由でなまえの話に付き合っていただけだったが次第に話が弾むことも増えた。初日に抱いた相容れないという感想は薄れていき、おれからなまえの話を促すことも出てきた。
 パンが嫌いだと突っぱねるとそれ以来米を中心とした食事になり、新聞か何かないか尋ねると新聞とおれが医者だと名乗ったからだろう、何冊かの医学書がベッドサイドテーブルに積み上げられた。それらも読み終わると一人の時間はこの教会の代々の聖職者が残したという手記を読み込むのに費やした。ようやくベッドから起き上がれるまでになった頃別室に所狭しと敷き詰められた本を見た時は驚くと同時に出航が近づいている事実が少し惜しくなっていた。

「流石にこれらをお渡しする訳にはいきませんが、ここにいる間は自由に読んでもらって構いませんから」
「なまえは全部読んだのか」
「そうですね、一通りは。これとか結構面白かったですよ。百年前の薬効の本ですって。結構紙はボロボロになってるので読む時は気をつけてくださいね」

 なまえの手に持つ本を後ろから覗き込む。そこまで分厚くはないが書き込みの量が多く、読み終わるのに一週間と少しはかかりそうだ。その頃には傷も完全に癒えているだろう。鈍った体も本調子を取り戻しつつある。タイミングとしてはちょうどいい。

「来週あたり、出航する」
「……っ。寂しく、なりますね」

 目を伏せたなまえの背中があまりにも小さく。この島を出るということはなまえに会うことも無くなるのだという当たり前の事実を目の当たりにした気分になった。
 

 出航に備えておきたいとなまえに言い残し街に出た。もう一つの教会とやらに用があったからだ。教会の人間はヴァンパイアに噛まれた人間の話を知っていたらしく、最初はひどく身構えられたがおれが太陽の下を歩いていることで徐々に警戒の色を薄めていった。やはりと言うべきかヴァンパイアになってしまったかもしれないおれをこの街の人間はあの教会に隔離していたのだ。ガキ共が遊びに来られないと言ったのもおれがいるせい。いざと言う時なまえ一人を犠牲にする腹だったのだ。全くこの街の連中は良い性格をしている。その中でよくもまあなまえは純粋に育ったものだ。

「海賊と言ったね」
「あァ」
「あの子に手を出すんじゃないよ」

 それは心配というよりなまえが居なくなればあの教会の管理を誰かが行わなければならないからといった口調だった。
 大方予想通りだが、ヴァンパイアの住む森に近いあの教会は誰かが管理しなければならないものの、誰もがやりたがらないため人の良いなまえが押し付けられたということらしい。孤児であったというなまえを拾ってシスターとして育てたのはある意味生贄のためだったわけだ。だがまァこれで心置き無く行動に移せるというもの。


 
「おかえりなさい。街はどうでしたか?」
「あァ、色々興味深かった」
「それは良かった」

 ここの管理を押し付けられたとなまえは知っているのか。いや、知っていても引き受けそうだ。どこまでもお人好しで疑うことをしない。だからきっとおれの嘘にも騙されてくれる。

「今日は少し寒いのでシチューです。ローさんのお口に合うといいんですけど」
「お前の作ったものならなんでも美味い」
「嬉しい。ローさんが来るまでは誰かに食べてもらうなんてなかったものですから」
 
 いくらなまえと過ごすこの空間が心地よくてもずっとここに居る訳にはいかない。出航すると告げた日に当たり前になりつつあったなまえと過ごす時間がなくなるのだと自覚して以来なまえの姿をより一層追うようになった。別に最後だから目に焼き付けておきたいなどといった後ろ向きな気持ちからではない。なまえと会わなくなり、やがてなまえの中でおれは思い出に成り下がるのだと思うと我慢ならなくなったのだ。いい加減見切りをつけなければと自身を叱咤する程にどうにも離れがたく、なまえが欲しくてたまらなくなっていた。だからこそおれは街に出て確かめたのだ。
 数日前に電伝虫で仲間には連絡を取り、こちらに向かっていると連絡はついている。このまま彼女を置いて大海原へ出るのは惜しい。
 なら、奪うまで。

「――なァ」
「はい?」

 甲斐甲斐しく夕餉の準備をするなまえの背中に呼びかける。なまえは決して背を向けたまま話をしない。そんなところも気に入っていた。

「体が痛ェんだ」
「えっ、どうしましたか。またどこかお怪我を」

 焦り駆け寄ってきたなまえの手を取る。月夜に照らされたなまえに欲望がせり立てられた。

「ヴァンパイアは、太陽の下に出られないんだったな」
「そう、ですが……」
「噛まれたのが首じゃないからか、出られねェほどではないが、長時間太陽の下にいると体が痛む」
「えっ……」
「街に行った時ヴァンパイアがどんなものか調べさせてもらったんだが、そこでこの痛みを引かせる方法がようやく分かった」

 コク、となまえの喉が嚥下する。さて、この女は騙されてくれるのか。なまえの手を握る力を強める。

「聖職者の血にはヴァンパイアの血を中和させる効果があるらしい」
「そ、うなんですか……?」
「だが中途半端に噛まれたせいでおれには血を飲むための牙がない。そこで、だ」

 ――お前の唇から血を飲ませろ。中途半端だからこそ牙はねェが血は少量で事足りる。少し唇を噛んでくれりゃ血は出るだろ。
 反射的に唇を覆う手をゆっくり剥がし覗き込む。少し考えれば嘘だと分かりそうなものを、馬鹿みたいに素直ななまえは覚悟を決めたように二度、三度深く息を吸い込み自らの唇を噛んだ。ふっくらとした唇から流れる血が艶めかしく誘う。馬鹿な女と内心嘲り唇を貪った。血のついた唇を舌で舐め取り吸い上げる。勿論それだけで足りるはずもなく、口を開かせ口内を堪能するのも忘れない。口内を貪る意味に言及しないなまえがなんて愚かしい。
 キスに慣れないのか舌を惑わせるばかりのなまえに絡ませろと短く命令する。するとぎこちなく絡んでくる様がたまらなく背中に鳥肌がたつほどの快感が走った。

「は、ぁ、これで、いい、んですか……?」

 息も絶え絶えに潤んだ目で見上げるなまえにもっとと浅ましい本能が悲鳴をあげた。が、これ以上はまだ早い。もっとなまえを内に取り込んでからでなくては。

「あァ、だがおれは明日にはここを発たなくちゃならねェ。もう仲間にも連絡をとってあるからな」

 次の言葉をなまえは察したのか俯いてしまった。だがそれで止めてやるくらいならはなから騙したりなどしない。お人好しのなまえに時間が無いとせり立てれば押し黙ると見越してダメ押しの台詞を吐く。

「お前も来い。お前の血がないと生きられねェ」


 ◆
 

 ――そうして、なまえを連れ出して半年。
 いい加減嘘に気づいているのかいないのか。時折故郷を偲ぶ様子が見受けられるが降りたいとも言わず黙っておれの呼び出しに応じキスを重ねる日々。
 こちらとしては今更戻りたいなど言われても降ろす気は毛頭ないのだが。
 キスはほぼ毎日の習慣になっており、就寝前に必ずなまえはおれの部屋に立ち寄るという暗黙の了解が出来上がっていた。キスをしてそのまま帰す日もあるがそのままなし崩し的に同じベッドで夜を明かす日もある。かといって抱いただとかいう事実はまだない。抱きたい気持ちがないかと問われればあると即答できる。しかしなまえを腕に閉じ込めて眠るだけで満足なのも本音で、だったら今しばらくはこの状態でもいいかと現状維持を続けている。どうせなまえにこの船以外の行き場はないし、仲間もなまえに手を出すやつはいない。

「ロー、ちょっと、待ってくださ……」

 体力のないなまえはキスだけで腰砕けになりおれの胸に撓垂れ掛かる。その様が逆に煽っていると気づかないなまえの顎を掬って息を奪った。フリはもう必要ないかと考えつつもポーズとしてなまえの唇を噛み、血を滲ませる。甘い血を堪能しているとヴァンパイアもこんな気持ちなのだろうかと不思議な気分になる。普通のキスより官能的なのだ。ほおけた顔で縋るなまえが咎めるようにおれの名を呼んだ。だからそれが煽っているというのに。

「もう、大丈夫ですか……?」
「……もっと」

 応えようとする意志とは裏腹に体は逃げてしまうらしく、引いた頭をこちらに引き寄せる。裾を握っていた手を首の後ろに回させた。ぐっと深く交わる呼吸に夢中になり、止められない。後ろにあったソファに腰を下ろす。なまえの腰に手を回し膝の上に乗せると抵抗をしめしたが背中にも手に力を込めて回すと大人しくなった。キスだけで満足ならばその先に進めばどうなってしまうのか。こんなことを思うのは初めての経験だった。思春期のガキじゃあるまいし、キスだけの関係などなまえに出会う前のおれなら鼻で笑っていただろう。

「大丈夫か」
「す、すみませ……。すぐ、退きますから」

 長い長いキスが終わり目も虚ろななまえを抱きかかえ、ベッドに下ろす。そうするとご丁寧に毎回申し訳ない、すぐ出ていきますからと抵抗をみせる。こうなっているのはおれのせいだというのに。

「構わねェ。どうせならこのまま寝ていけ」

 二の句を継ぐ前におれもベッドに潜り込み正面からなまえを抱きしめた。なまえ自身の甘い香りが鼻腔をくすぐる。少し呼吸が落ち着いてきたなまえを労い、ポツポツと言葉を交わすこの時間が何よりの楽しみだった。

「明日には街のある島に着くが、まだ安全かどうか分からねェ。降りても平気か見てくるからお前はここで待ってろ」
「……はい。ありがとうございます」

 本当は安全そのもので観光地として成り立つ島だと知っている。常駐している島の軍隊が強く、問題を起こした海賊は悉く返り討ちにあうため海軍もあまり立ち寄らないのだという。裏を返せば問題さえ起こさなければ海賊であろうと構わないわけだ。観光業を生業にしている島としては金を落とす人間なら何者であれ歓迎なのだろう。そうと知っていてもやはり自分の目で見て安全を確かめてからでないとなまえを降ろす気には到底なれなかった。常に傍にいるつもりでも、予想外の事態も有り得る。用心に超したことはない。
 いつの間にか寝息をたてるなまえに触れるだけのキスをし、おれも本格的に眠りについた。



 島は想像以上に栄え、かつ安全そのものだった。路地に入れば怪しげな連中はいるものの、大した相手では無い。これならばなまえを連れてきても良さそうだと判断した。ふと、通りがかったショーウィンドウに目をやる。煌びやかなアクセサリーが陽の光で反射し、一層の輝きを放っている。恋人同士であろう男女が腕を組みながら店に入っていった。
 足を止め、なまえにこういったものを贈ったことがないというのに気づく。おれ達は恋人ではないが、たまにはこうして贈り物をしてみてもいいのかもしれない。シスターだったからか、普段から質素な服装ばかりのなまえだが、流石に人からの贈り物を無下にはするまいと男女の後を追い、店に入る。今まで足を踏み入れたことの無い空間はなんとも居心地が悪かった。
 中は存外広く、ショーウィンドウに飾られているような華やかなものからこじんまりとしたものまで多種多様に揃っていた。先程の男女が指輪を吟味しているのに倣い、目をやる。指輪を贈るにはまだ早いかと早々に見切りをつけ、別の棚の前に立った。ネックレス、ピアスにイヤリング、ヘアピンといったアクセサリー類が陳列する棚を睨む。ピアス以外はどれも自分に馴染みがなく、もっといえばなまえの好みなど何一つ分からないというのに軽く失望した。どれを選べばなまえは一番喜ぶのだろう。いや、どれであっても喜ぶに違いないのだが、どうせなら好みのものを選んでやりたい。そうなると一緒に来るのが最適解なのだろうが、サプライズとして贈り、なまえの驚く様を見たかった。
 幾つか手に取ってみたはいいものの正解が分からず立ち尽くす。散々悩んでいるのが見るに耐えかねたのか奥に座っていた店主がこちらの手元を覗き込んでいた。

「――あぁ、それはいいものを選んだね。恋人への贈り物かい?」
「まァ、そんなようなもんだ」
「お前さんが手に持つそれにはめ込まれた宝石はこの島の海岸付近の岩から採れるものなんだ。海の近くで出来るからか真っ青で美しいだろう」

 促され、照明の下に手に持っていたイヤリングを翳す。すると真っ青な宝石は薄い黄色に変わった。

「面白い宝石だろう。他にも色が変わるものはいくつかあるがそれほど綺麗に色味が変わるものは少ない」

 昼間は黄色く岩の色に擬態し、夜は青く擬態することから見つけづらいために希少価値が高い宝石がはめ込まれたイヤリングはそれなりに値が張ったが、これくらいならば痛くも痒くもない。なまえがどんな反応を見せるか今から楽しみだった。


 
 夜、いつも通りやってきたなまえにおれはあろう事か緊張していた。何せ女に何か贈るなど産まれて初めてなのだ。無論母様や妹を除いてだが。
 普段ならやってくるなり唇を貪り食うのに今日は手を出さないからか熱でもあるのかと心配したなまえがおれの額に手をやった。

「島はどうでしたか?」
「ん、あァ。それなりに栄えていたし、そこまで危険もなさそうだ。明日はお前も行くか」
「楽しみです。子供たちのお土産もあるかしら」

 その言葉に身を固くする。いや、よくある事なのだ。ガキ共に土産を買っては故郷の島に送っているのを幾度となく見てきた。なまえにやるはずだったイヤリングを見つからないよう隠し、あるんじゃねェかと素っ気なく返した。

「島に、帰りたいか」
「えっ……」
「ここにいるのはお前の意思じゃねェだろう」
「でも、ローが」

 どこまでも優しいなまえが困ったように眉尻を下げた。ヴァンパイアなど、お前がいなければ太陽の下を歩けないなど嘘に決まっているのに、なまえは未だそれを信じきっている。信じているからおれの傍にいる。危険な航海に身を置くのも全て可哀想な男への憐れみの気持ちからなのだ。そこに、おれ自身への感情はどこにもない。それでも構わないと連れ出したのは紛れもないおれ自身だったはず。なのに最近妙に引っかかる。当初のただ所有していたいとの欲求はやがて笑顔がみたいという欲望に様変わりし、ますます手放し難くなっている。笑顔を引き出すというのは単に傍に置くより難しい。
 ぐっと目の前の体を引き寄せ肩口に唇を寄せる。恋人でもないおれの行為を受け入れるのはなまえが優しいからだ。同情し、つけ込まれるなまえにえも知れぬ焦燥感が湧く。なまえにはおれ自身を見てほしい。同情や憐れみではなくおれの傍にいたいという理由で身を置いてほしい。

「ロー?」
「なんでもねェよ」

 顔を寄せ、キスをするのに抵抗をしないのも。おれに触れたいからという気持ちに変わってやしないだろうか。なまえの傷一つない耳を擽ると身を捩らせた。

「私、帰りませんよ」
「…………」
「ローの傍にいます」

 そこに望む気持ちが乗っていなくとも、今はまだ。


 ◆


 ローの傍にいます。
 その言葉に嘘偽りはない。けれどその意味合いは少し変わってきている。最初はただ私の血を求める彼への同情心と使命感からだった。それが段々と彼自身への愛情からといった理由に変化していった。彼が私を求めるのは血が理由。他に都合のいい聖職者が現れたら戦えない足でまといな私など簡単に切り捨てるだろう。それでも愛する人の傍にいたいと私は毎夜の逢瀬を楽しみにしていた。昼間は彼も船長という立場上忙しく、あまり話すことがないからだ。
 その分毎晩会いに行くのが許されるのも、時折一緒に眠るのもまるで特別だと言われている気がして嬉しかった。ある意味で特別なのはそうなのだけど、私と他愛ないおしゃべりもしてくれるから、まるで彼の恋人になれたようで擽ったくてとても心地よかった。彼に抱きしめられるのもキスをされるのも幸せでいつか島に帰される日を思うと怖かった。私の名を呼ぶ優しい声も彼の温もりも過去のものにしたくない。そんな浅ましい願いまで出てきて島に着く度どうかこの島に聖職者がいませんようにと願った。


 
 実は故郷を出てからここまで栄えた街に来るのは初めてで、それもローが一緒だから言いしれない充足感に包まれていた。子供たちへのお土産を買ったり食べ歩きをしたり。島には劇場もあって私が興味を引かれているとローが行くかと付き合ってくれた。まるで普通の恋人同士みたいだと緩む頬を抑えきれずに幾分か背の高い彼を見上げると優しい笑みが降ってくるものだから赤く染まる顔を誤魔化すのに必死だった。

「あ……」

 朝から島を満喫し、日が傾きかけた時分。街の子供たちが走っていった先に教会があった。懐かしさと同時に不安がとぐろを巻いて喉に絡みつく。ここに、ローにとってより都合のいい聖職者がいたら。浅くなる呼吸をなんとか整え、なんでもない風に懐かしいですね、と笑顔を作った。
 ローは曖昧な返事を返し、そろそろチェックインの時間だと島に滞在する間取っていたらしいホテルへ私の手を引いて行った。故郷の子供たちを思い、後ろ髪を引かれる気持ちで教会に背を向ける。事前にローが話をつけていたらしく、私のいた教会は別の人が管理することになった。後任のシスターはいつでも戻ってきてと私の手を握った。
 私は、いつか帰るのだろうか。故郷ではきっと、子供たちが待ってくれている。町の人たちも。ローはいつまでも私を必要としない。いつか、いつか帰ったとしてローに出会う前のように過ごせる自信はとうに無くなっていた。きっとローを想い、前ほど熱心に祈りを捧げられないのは自明だ。果たしてそれでシスターが務まるのか、不安は尽きない。
 見たこともない豪華な部屋も色褪せて見える。帽子を取りソファに腰を下ろしたローが促すままにキスをした。血の滲まない戯れのキスを、後何度交わせるのか。いっそ愛していると伝えればどんな反応を示すだろう。ローが私の体調を考慮して取ってくれたルームサービスもあまり喉を通らなかった。
 ローが教会の扉を開けて今日から乗せることにしたと他のシスターを連れてきたら、どうしよう。
 どうか明日は教会の前を通らない道で船に帰れますように。


 ◆


 教会があるのには昨日気づいた。それでも近くを通らなければ平気だろうと高を括っていたのだが油断した。別の道を通ってホテルに行くつもりが誤って一本横の通りに来てしまったようだ。教会を見ればなまえは故郷を思い出す。そして帰りたいと乞い願うに違いないのだ。そうなってはおれにとって都合が悪い。なまえが自らおれといたいと言わない限りおれになまえを引き止める術は無い。みっともなくお前の血がなければと脅すくらいしか対抗手段がないのだが、ここには聖職者が沢山いると言われれば丸め込むのに窮するのは目に見えている。
 懐かしいと作り笑いを浮かべるのは帰りたい気持ちを悟られないようにするためか。なんとかその場は誤魔化し、こうしてホテルにやってきたわけではあるが、どうもなまえは浮かない表情のまま。食事にもほとんど手をつけない。もう寝ろと宥め賺しているとなまえが自ら唇を噛み血の滲んだキスをしてきた。それがなまえの血で繋がっている関係だと示唆するようで気分が悪い。本当、厄介だ。おれも、なまえも。

「もう、いい」
「え?」
「血はいらねェ」

 絶望を顔に張りつけた表情はおれがそうであれと望んだからそう見えるのか、なまえ自身の表情か分からなかった。
 確かなのは翌朝、なまえが姿を消したことだけ。


 肌寒さで目を覚まし、近くにあるはずの温もりを引き寄せようと手をさ迷わせる。だがいくら伸ばしても宙を切るばかりで探す温もりは指先にすら触れない。ダブルベッドとはいえそう広くないのにそんなことが有り得るだろうかと身を起こすとベッドの上にも、視認できる範囲の部屋のどこにもなまえの姿は見当たらなかった。シャワーでも浴びているのかと洗面所も覗くがいない。嫌な汗が流れた。放心状態で壁に寄りかかると備え付けのテーブルに一枚の紙が残されているのが目に入った。お世話になりました。だと? 送ってくれなくても一人で帰れると書かれた紙を握りつぶす。
 置き手紙を投げ捨て、慌ててホテルを飛び出し教会に足を運ぶがいない。船にも戻っていないようだった。広い島だ。他の島への便も沢山出ている。もし、なまえがお役御免だと帰る決意を固めたのなら早く見つけ出さないと不味い。焦りを隠そうともしないおれに船に残っていたベポが不思議そうに首を傾げた。訳を話すと仲間総出での捜索が始まった。頼むから、まだここにいてくれ。なまえがいない生活などもう考えられないのだから。


 ◆


 教会を懐かしんだ私への曖昧な返事は他に連れて行く聖職者が見つかったからのものだったのだと悟ったのは、血はもう不要だと告げられた時だった。懐かしむ必要などない、直ぐにお前もそこへ帰るのだから、と。暗にそう伝えたかったのだ。心臓が早鐘を打つ。本当ならローにもクルーの皆にも別れを告げて帰るべきなのに、顔を見たら泣いてしまいそうで、まだここに居たいとみっともなく縋ってしまいそうで。置き手紙を残し、黙ってホテルを後にした。最後に見たローの寝顔が脳に焼き付いて離れない。こんなにも突然別れなければならないなんて。荷物を取りに船に寄ることも出来ず船頭さんに声をかけ、故郷への船を探した。とりあえずのお金を持っていて良かった。この島に留まれば未練は大きくなりそうだから早く出ていきたかった。

「週に二回しかこのルートへの船は出ないんだ。次に出るのは三日後だからまたおいで」
「分かりました、ありがとうございます」

 三日。その間ローにも誰にも会わず過ごせる場所を求め、まだ夜が明けきらない街を彷徨う。やがて街外れにある港と真反対の海岸に辿り着き、膝を抱え海を眺めた。精神的にも肉体的にも疲れきってしまった。昨日はあんなに楽しかったのに。いつか本当の恋人になれたらと夢さえみられたのに。
 滲む涙を拭うこともせず、抱えた膝に額をつけた。どれくらいそうしていたか分からない。突如肩を掴まれ反射的に顔をあげると焦りを表情に滲ませたローがいた。

「どうして、ここに……」
「何故黙って消えた」
「だって……」

 言葉が出てこないまま視線をさ迷わせる私をローは無理やり立たせた。

「帰るぞ」
「えっ」

 帰る。帰るって、どこに?
 だって、私はもう必要ないんでしょう? なら何故探したりしたの。どうしてそんな焦った顔をするの。
 様々な疑問がぶつかり合い、動けなくなった私にローは歩みを止めて向き合った。

「故郷に帰りたいか聞いた時、傍にいると言ったろう」
「それは」
「やっぱり帰りたくなったのか?」

 帰りたいだなんて。帰したいのは貴方だろうと言葉にしたいのに喉に絡みついて出てこない。

「お前には悪いが、今更帰りたいと言われようが帰してやれねェ」
「でも、血はいらないと」
「あんなもん、はなから嘘だ」

 驚きから目を見開く私に一歩近づいたローが耳に冷たい金属を付けた。

「お前が欲しいと思ったから連れてきた。あの時点で帰すつもりはさらさらなかった」

 冷たい金属はイヤリングだった。右耳に付けられたのであろうそれと同じものがローの手のひらに乗っている。綺麗な薄黄色の宝石がついていた。

「夜になると青に色が変わるそうだ」

 もう片方の耳にもイヤリングが付けられる。これを、私に? いや、その前にローはなんと言った? 血など関係なく私自身を求めてくれていると自惚れてもいい?

「私、ここにいてもいいのですか?」
「ここにいろ」

 ここ、を示すように腕を引かれてローの胸に閉じ込められる。二度と触れることはないと思っていた温もりに涙が誘発された。
 血などなくともローの傍にいられるのだとの実感が胸の内に暖かく侵食した。想いを受け取ってもらえる。その事がなんて嬉しい。
 降ってくるキスを受け止め、ローの広い背中に手を回してその幸せを噛み締めた。


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